はじめに
昭和の話を作った理由
50歳を過ぎてから、時代小説を読むようになった。きっかけは伯父からもらった池波正太郎さんの『剣客商売』で、主人公の秋山小兵衛さんにどっぷりハマった。何しろ強い。そして、スマート。ちょっとスケベなところも好き。以後、江戸時代が舞台の「ちゃんちゃんバラバラ小説(伯父の表現)」を片っ端から読んだ。佐伯泰英(さえきやすひで)さんの『居眠り磐根(いわね)』の主人公・盤音さんにはかなり長い間、ときめかせて頂いた。葉室麟(はむろりん)さんの小説に登場する男性には次々惚れ、作者もこんな男を求めてさまよっている人なのね、と作家に共感していた。しかしある日、著者の写真を見て葉室麟さんが男性だと知り愕然としたりして。(勝手に葉室さんは女性だと思っていたのだ。)
お江戸にハマった理由は人物だけじゃない。人々の生活ぶりにも興味をそそられた。簡単に旅はできないし、東京から大阪まで何週間もかけなくてはならないなんて、どれほどの苦労をしたのか。住まいだって庶民は土間と板の間、四畳半の畳敷きだけという裏長屋。余計なものは一切ないシンプルな空間での生活。でもだからこその工夫があちこちにされていた。
その頃に比べれば私が生まれた昭和の時代はまだ便利だった。テレビも電話もあった。家の中にトイレもお風呂もあった。だけど、トイレは水洗ではないし、電話は携帯ではない。お風呂も水を入れて薪と炭で沸かしていた。
スマホがあれば買い物できるし電車にも乗れる、外出先から家のお風呂にお湯も張れる令和の今では想像できない不便さだ。
と、平成生まれの友人に「(電話の)ダイヤル回したことある?」などと聞いて昭和の不便さを思い出した私。もしかして友人たちにとっての昭和は私にとっての江戸時代ではないのかと思い始めた。そして「テレビの音をテープに録音する時は雑音が入って…」と苦労話をしながらも不便なりに面白いことも味わい深いこともあったなぁとしみじみ。ああ、懐かしい。だから、そんな話を集めてみた。
昭和の定番
家の電話 電話が家に設置されたのは
電話が家に設置されたのは、私が小学校低学年の時だ。黒のダイヤル式の電話で、道を挟んで向かいのご近所さんと回線を共有していた。だから、お向かいが使っていると使えなかった。文化住宅(昭和30年頃に建てられた集合住宅)に住んでいた同級生の家には電話があって、近所の人にかかってきた時は親に言われて自分が「〇〇さんのおばちゃん、電話かかってきたで」と呼びに行かされたことが思い出だそうだ。
だから、昭和のご近所はみんな顔見知りで知り合いだったのだ。
公衆電話 私が大学生だった昭和60年前後
私が大学生だった昭和60年前後は各家庭に電話は普及していた。しかし、実家を離れた下宿生が部屋に電話を置いていることは少なく、寮や下宿にはたいていピンク色の公衆電話(オーナーさんが設置する電話番号付きの公衆電話で受電が可能)があった。電話のためにしっかり者の学生は10円玉を貯めていた。確か当時の市内通話料金は3分10円。市外通話は距離制で遠くにかける場合はひっきりなしに10円玉を投入してしゃべっていた。一方、お金にちょいとルーズな友人H美ちゃんのエピソードを。予定外に仕送りを早く使いきってしまった彼女は、室内を探し回り、やっと見つけた10円で京都の下宿から大阪の実家に電話をかけた。そして母親が出たとたん「お金、振り込んでぇっ」と一言叫んで生き延びたそうだ。
たかが10円、されど10円、あなどるなかれこのコウカ。令和の時代も万一の場合は町中の公衆電話が頼りになる。キャッシュレスがいくら進んでも10円玉は手元に置いときましょうね。
ファクシミリ 令和の今でも我が家には
令和の今でも我が家にはファクシミリ=ファクスがある。FAX機能付き電話機を置いているのだ。子機1台付きだったが、もう何年も前に子機は壊れてしまった。でも、最近は通話といえばスマホなので不便を感じることはない。イマドキ自宅に固定電話があるのも珍しいかと思うが、さらにファクスがあるなんて平成生まれの人には信じられないかも知れない。実際、使用頻度は非常に少ない。数年に1度、間違いファクスが届く程度で、送信したのは一昨年だった。
令和じゃ登場回数が少ないファクスだが、昭和の終わりに勤めた会社では毎日大活躍だった。電話だけでは心もとない内容は必ず文字化して送り合っていた。24時間送受信できるので伝え忘れた用件を慌てて夜中に送ったり、始業前に急ぎ案件を送ってもらって朝イチ業務に備えたり。仕事は雑誌の記事制作だったので締め切り間際の原稿を何十枚も送り続けた記憶もある。これは便利なようで結局時間がかかったりした。なにしろ当時は通信スピードも遅かったし、ファクスにセットできる紙の枚数も今の家庭用レベルだったから、ファクスの横に張りついて原稿用紙を挿入していた。
FAX機能付き電話機が普及し自宅に置いたのは平成に入ってから。友達とメッセージのやりとりをしたりお互いの家や待ち合わせ場所の地図を送り合ったりが多かった。それまで郵送で数日間のタイムラグがあったのに、ファクスでダイレクトに届けられるのは画期的だった。旅先で知り合ったオランダの友人にダメ元で「遊びに行っていい?」と書いてファクスしてみたのは20世紀最後の年、1999年のこと。エラーが出ると予想していたら、なんとそれは無事に友人に届き、ほどなくして「OK!」とファクス返信が来た時はマジで大興奮。語学力の点で電話は不安でもこれなら安心。あって良かったファクス君だ。
こんな経験があるからなかなか処分できない。耳の遠い高齢者に連絡を取りたい時も重宝する。昔は感熱ロール紙に記録していたが、今はコピー用紙にインクリボンで記録する。だが、現在の使用頻度だとインクリボンが乾いて使えるか心配。それでも通信手段をひとつにすることに抵抗があり置いてしまう。携帯電話と固定電話、電子メールとファクス、こっちがダメならあっちを使えるこの安心感。
「そろそろ終活、さっさと断捨離」の年なのに、こりゃイカンなぁ。
カセットテープ テレビの音楽番組から録音する時は
小学校の頃、テレビの音楽番組から好きな歌手の歌を録音する時は、テレビの前にカセットデッキを置いて、カセットテープに録音した。周りの音が全て入るので、家族には黙っているようお願いして録った。それでも父親のくしゃみや母親の笑い声などが入ってしまい、いつまで経ってもまともに録音できないのだった。そのうちカセットデッキが進化し、録音がたやすくできるようになったので、高校・大学時代は友人と録音したテープを交換したり友人が編集したテープをもらったりした。また1980年代はポータブルオーディオプレイヤー・ソニーのウォークマンが人気を博していて、その頃がカセットテープの全盛だ。以後、デジタル化が進むわけだが、今でも私は手元にデッキとテープは置いている。音質は劣化しているが、お気に入りの音楽の魅力は変わらない。いいですよ~、80年代の音楽(^^♪
駄菓子屋1 「おばちゃーん、10円で」があいさつ代わり
「おばちゃーん、10円で」があいさつ代わりで通っていたのは2軒隣の駄菓子屋モリシタ。昭和40年代のことだ。5円でくじ引きして飴玉をもらい、5円でたこ焼きを買ったりしていた。店の奥ではおばちゃんがいつもたこ焼きを焼いていた。小ぶりで外はカリ、中はトロンの美味しいたこ焼き、値段は5円で3個、10円なら7個だった。この価格はひとつ上の姉が先日教えてくれたので間違いない。令和のタコ焼きとはケタが違う、恐るべし昭和価格と感激していたが、続けて姉が教えてくれた。「タコ入ってなかったで、コンニャクやったで」。なるほど、だから安かったのか。駄菓子屋2 もう一軒はアチャコ屋という名
もう一軒はアチャコ屋という名の駄菓子屋だ。家から百m離れた場所にあった。アチャコ屋は正式名称ではない。店の主人がアチャコに似ていたから界隈の人にこう呼ばれていた。しかし、当時の私はアチャコが何者なのか知らなかった。令和になりウィキペディアでようやくその正体と風貌を知った。漫才師の花菱アチャコさん。駄菓子屋の店主を覚えていないので、ネットの写真を見てもピンと来ないが、名前の響きに懐かしさを覚えるのだった。煙草 生後6か月の私を抱いた伯父の手に
生後6か月ぐらいの私のモノクロ写真がある。座敷に座ったランニング姿の伯父が左手で私を抱いてくれている。右手は煙草だ。令和ではありえない光景ではないか。思えば昭和は煙草を吸う人が多かった。そして、10代の頃の私は煙草を吸う男性の姿にキュンキュンしていた。なんてったって私の推しは松田優作さんだったから。女性も吸う人は多く、高校時代の同級生は桃井かおりさんの喫煙シーンに影響されて吸い始めたと言っていた。公共交通機関でも煙草は自由に吸えた。新幹線にも飛行機にも各座席に灰皿はあった。
学校を卒業して就職した会社のデスクの上にも灰皿はあった。ギリギリ昭和の頃だ。電話、コーヒーカップ、灰皿が3点セットで置いてあったのを覚えている。
平成に入り、分煙が進み、令和に入ってすぐのコロナのパンデミックで禁煙化は加速したようで、今では公共の場所で喫煙できるスペースはほとんどなくなった。そして、ほんのわずかな喫煙スペースにスモーカーは押し寄せ、喫煙ルームは燻製人間製造室のように中の人を燻しているのだった。
辞書 何か調べたい時は
何か調べたい時は検索窓にキーワードを入れれば一瞬でわかる令和時代。映画のタイトル、ドラマの主演の相手役の名前、美味しいお店、知らない町の見どころ、行きたい町の行き方、乗り物の時刻、宿泊施設のリスト、料金、予約法…ホント便利だ。昭和の時代は、調べものと言えば、辞書、百科事典、図書館だった。今、辞書を引く人って、どれくらいいるのだろう。「LOVEという言葉だけ切り抜いた」辞書を明日返すという竹内まりやさんの歌があるのだが、辞書を使わない世代にはピンとこない歌詞なのではないかと思う。
スペイン語圏に初めて行った時は平成に入っていたが、まだスマホは普及していない時代。貧乏旅行者の私はスペイン語の辞書が買えずコンパクトな英和辞書だけにしたせいで恐ろしく苦労した。訪問先は中米のグアテマラだったが英語がわかる人は一部だった。スペイン語学校の教師も英語のレベルは私以下(これはカタコトに近いレベル)で下宿先が貸してくれたスペイン語英語辞書と手元の英和辞書の2冊を駆使して学ぶレッスンは非常に効率が悪かった。スマホに話しかけるだけでお互い通じ合える今では考えられない手間と苦労。もう一度その苦労をしてみる気はあるかと問われたら還暦過ぎの私は丁重にお断りするわけだが、あの手間と苦労があったからこそ初めて行ったスペイン語圏での時間が忘れられないものになったことは確かなので、あれはして良い苦労だったと思うのだった。
大宅壮一文庫 著名人のエピソードを調べたい時
社会人になりたての頃、著名人のエピソードを調べたい時は、東京都世田谷区にある大宅壮一文庫に行った。その施設はあらゆる雑誌をコレクションしていて、知りたい情報は人名や件名で検索でき、該当する雑誌の記事を閲覧できるようになっていた。と、昔の記憶をたどりつつ書いているが、アクセスや利用方法の曖昧な部分はウィキペディアを開いて調べなおしている。家に居ながらすぐに欲しい情報がすぐに出せるなんてホント便利な時代になったわ~。
待ち合わせ 事前に場所と時刻をきちんと決めて
事前に待ち合わせ場所と時刻をきちんと決めておくこと、当日は絶対遅れないこと。この2つを外すととんでもないことになった。
なぜなら一旦家を出てしまうと連絡を取り合う手段がなかったから。
家族と一緒に住んでいるならまだしも一人暮らしなら、なおさら連絡が取れない(寝坊なんかで本人が自宅にいた場合は別だけどね)。
だから、駅には伝言板があった。遅刻者に対して「先、行ってる。〇〇」とか「△△へ。××で待ってる」と書き残したわけだ。
待ち合わせ場所を間違えるなど言語道断なのだが、ここで両親の結婚前のエピソードをひとつ。
彼らは社内恋愛をしていた。まだ交際を内緒にしていたある日、会社の階段ですれ違う時に父が「今日、いつもの場所で」とデートに誘った。その日の夜、ふたりは会えなかった。なぜなら父は会社の最寄り駅・阪神尼崎駅で、母はデートで良く行く阪神梅田駅で待っていたから。しばらく待っても相手は来ない。そこで二人とも「もしかして場所、間違えた?」と思ったそうだが時既に遅しで、その日はデートせずに帰ったそうだ。
ところで、そんな話を娘にする時の母はかわいかった。女は昭和育ちだろうが年を取っていようが女なのだねぇ。
お葬式 昭和48年、葬儀は自宅で
私が9歳になった昭和48年、2月に同居していた伯母が、6月に祖母が相次いで亡くなった。葬儀は、自宅で執り行われた。通夜の後の食事はご近所の方が総出で煮しめやお握りなど作ってくれた。親族は家の中でお焼香をした。この時のお焼香順を決めるのが大変で、最初は喪主がするのだが最後の「止め焼香」を誰がするかが気を遣う点だった(ようだ)。順番が決まったら紙に書いて葬儀屋さんに渡し、それを司会者が読み上げて順番に焼香した。尚、親族以外は玄関の土間に焼香台が置かれ、お参りに来てくれた故人ゆかりの人、ご近所の方、父の会社の関係者他が次々お焼香をしてくれた。今とは偉い違いだと思う。令和に入って両親を見送ったが、葬儀は両親が会員になっていた専用の会場で執り行った。故人に近しい人から席に座り、喪主以外は着席順に焼香をするだけで順番を悩むことはなかった。参列者の数も祖母の時ほど多くはなく、ほぼ家族葬に近い状況。父の時は新型ウィルス・コロナの影響が色濃く残っていたため親族14名の少人数で見送ることになった。にぎやかなことが大好きだった父だけに心底コロナを憎いと思った。
昭和40年代の我が家
余談~東京のワンルームの今~
今回、東京で済んだあの江古田のアパートはどうなっているのかネット検索してみた。さすが令和だ、なんとアパートの情報は建物名「ハイムペタルマ」を入力しただけですぐに見つかった。しかも2026年1月27日段階で私が住んでいた部屋が入居者募集中! それが下のスクショした画像だ。家賃は経年のせいだろう値下がりしていた。しかし疑問がひとつ。この広告によると1988年築となっているが、私が借りていたのは1986年4月~1987年12月だ。どういうこと? 外観写真は全く一緒なんだけどなぁ。築年の入力ミス? 確かめてみてSUUMOさん!
お風呂 家のお風呂は薪と炭で
家のお風呂は薪と炭で沸かしていた。昭和40年代の頃で、父は日曜には薪割りをしていたし、月に一度は屋根に上がって煙突掃除をしていた。冬は、寒くて炭をくべに行くのが嫌な母は「じゃんけんしよか」と言っては負けた家族にくべに行かせていた。同年代の人に、昔は薪と炭だったよねと話したら「うちは銭湯やった」と。そうだ、内風呂がなくて毎日銭湯に行っている人も多かった。だから、徒歩5~10分の場所に銭湯は3軒あった。
その銭湯は平成に2軒閉業し、令和に入って最後の1軒も閉業した。
代わりに少し離れた場所にスーパー銭湯ができたが、立地も規模も費用も普段使いはしづらい施設だなぁと思うのだった。
洗濯 脱水はローラーで
洗濯 庭の物干し台はコツが必要
裏庭 イチジクざくろ夏みかん
イチジク、ざくろ、夏みかん。どれも裏の庭で採れた果物だ。毎年ざるに山ほど採れたので、有難みには欠けていた気がする。今ではぜいたく品。イチジクなんて1個100円もしている。あの頃、たっぷり食べておいて良かった。令和の値段じゃ買う気しないし、買えもしないわ。日曜の薪割り
作成中土曜の麻雀
作成中土曜の焼きそば
作成中台所
作成中お手洗い1
下水が整備されるまでお手洗いは汲み取り式だった。和式の陶器製便器は穴がぽっかり開いていて排泄したものが丸見えだった。用足し後は、長方形のチリ紙で拭いた。和式なので長い間座っていると脚がしびれた。そのせいもあり小さい頃、立ち上がって便器をまたぐ時、何度もスリッパを落とし、その都度、親が汲み取り窓からスリッパを拾い出していたなぁ。お手洗い2
水洗便所に変わるまで男子用の便器があった。アサガオというやつだ。一度、興味があって、腰かけてオシッコしてみた。テレビで洋式トイレを見たのかも知れない。あるいは腰かければ楽にオシッコができそうと想像したのかも知れない。一人で留守番していたとある午後、パンツを下ろしてアサガオに背を向けお尻を乗せて用を足した。が、オシッコは便器に入らず我がパンツを濡らして終わった。アサガオと洋式便器は違うとわかった日だった。
年末行事のお餅つき
毎年12月30日は、親戚2軒と一緒に我が家で餅つきをした。29日は「苦もち」になるからついてはいけないと必ず晦日についた。前日からもち米を用意し、当日朝から蒸して、できあがったら、庭の石臼に入れる。と、父や伯父が交代でついた。餅になったら、箱に入れ、今度は母や伯母が丸餅、のしもちと作っていった。餅をついている間に次のもち米を蒸し、蒸しあがったら餅をつき、餅ができたら丸めていく。その繰り返しが1日中続いた日だった。祖母が亡くなるまで親戚集まっての餅つきは続いた。その後、餅つき機が普及したことで親戚一同集まって餅つきをすることはなくなった。
昭和の頃のマイブーム
リカちゃん人形
作成中山本リンダ
山本リンダさんの『こまっちゃうナ』発売は昭和41年(1966年)、私が2歳の時である。私はこの歌を病院のベッドの上で踊りながら歌っていた記憶がある。もう3歳になっていたかと思うが疑似赤痢なる病名で2週間、隔離入院させられていたのだ。入院前から入院後もしばらく続いた腹痛と吐き気は涙がちょちょ切れる辛さだったし、見舞いに来てくれた従兄達と仕切り越しにしか会えず、お見舞いグッズも見せてもらっただけで触ることはできない寂しく不自由な生活は幼心にストレス満タンだったのだろう、ひたすら「こまっちゃうナ~」と歌い踊っていた。が、本当に困っちゃっていたのは私ではなく、一緒に入院させられた母親(洗濯以外にやることがなく、自由に入浴できなかった)、まだ4歳の姉(祖母だけでは手に負えず親戚中をたらい回しされていた)、さらに保健所が家を消毒に来てご近所に恥ずかしい思いをした同居家族だったと後になって知った。いや、ホンマ堪忍。
ところで母いわく「この入院中にアンタは平仮名を書けるようになったことだけは良かった」と。タダでは起きない性格はこの時からなのかしらん( ;∀;)
キャンディーズ&ピンク・レディー
昭和のアイドルグループ、キャンディーズとピンク・レディー。この2組の楽曲はたいていの人が歌って踊れた。私も近くに住む三人姉妹の従姉と姉の5人で集まっては練習して、年に一回の親戚旅行の時にはお披露目したものだ。曲によってランちゃんミキちゃんスーちゃんミーちゃんケイちゃんの役を変え、踊りはもちろんハモリも完璧にした。おかげで半世紀近く経った今でも彼女たちの曲が流れると体が反応するし、「♪あなたの目が~」とキャンディーズの『哀愁のシンフォニー』を口ずさんだりしてしまう。(最後のハモリ部分が好きだったんだよね~。)そう、昭和歌謡の良さは歌いやすさと踊りやすさだった。ピンク・レディーの『サウスポー』はなかなか難しかったが、それでもこっちのけんとさんの『はいよろこんで』やSnow Manの『カリスマックス』ほどの難しさではない。令和のアイドルにはまっている人で同じように歌って踊れる人っているのだろうか? としたらさぞや練習が大変だろうなぁと思うのだった。
西城秀樹
私が初めて買ったレコードは西城秀樹さんの『傷だらけのローラ』だ。当時の御三家の一人で、子供心にあの色気にやられていた。小学校5年の時の同級生は郷ひろみ推しで、顔がどう歌がこうとお互い魅力を語り合ったものだ。『傷だらけのローラ』リリースは昭和49年(1974年)。それから4年後に発売された『ブルースカイブルー』で五木ひろし推しの母が一転、ヒデキ推しになったのには驚いた。「歌がいい!」と母は言っていたが私自身は色気が足りないとちょっぴり不満だった。しかし、平成30年(2018年)秀樹が亡くなった後、テレビで度々流された彼の歌声に「上手い!」と感激した。若い頃って見た目だけで決めて真価に気づかないもの。その最たる例だなと思った。ビリー・ジョエル&オリビア・ニュートンジョン
作成中ロードショー&スクリーン
作成中週刊マーガレット&少女フレンド&more
ゲームソフトもパソコンもスマホもない時代。小学生の私の楽しみは読書だ。それも漫画雑誌。家から徒歩3分の場所に本屋さんがあり毎週買ってもらっていた。姉は週刊マーガレット(集英社)、私は週刊少女フレンド(講談社)、友人との貸し借りもあったので、りぼん(集英社)や少女コミック(小学館)なかよし(講談社)も読み、様々なことを学んだ。たとえば『エースをねらえ!』でテニスのルールを『ベルサイユのばら』でフランス革命を知った。別冊マーガレット『愛のアランフェス』でフィギュアスケートの大変さを知ったし、野球のルールは週刊少年チャンピオン(秋田書店)の『ドカベン』で身につけた。雑誌の発売日は読み終えるまで他のことができず、親に先に宿題しろと叱られつつ読んでいた。トイレで隠れ読みすることも多く、足がしびれて立ち上がれなかったりしたものだ。トイレの電気の暗さが原因で視力もがたっと落ちた。が、そんなことも漫画が読めるならお構いなし。それほど魅力にあふれていた日本の漫画は、今、世界の人に認識されている。当たり前だのクラッカーやねぇ。(←昭和ギャグです)
竹内まりや&大瀧詠一
作成中バイオニックジェミー/チャーリーズエンジェル/刑事スタスキー&ハッチ
作成中ポプコン
中学に入った頃から深夜ラジオを聞きながら試験勉強をするのが定番だった。いわゆる一夜漬けでの勉強。翌日テストを受けたらすっかり忘れるというパターンで身に付く勉強法ではないのだが、堂々と夜更かしができるので明け方近くまでラジオを聞いていた。当時、ヤマハのポプコン(ポピュラーソングコンテスト)の全盛期で次々スターが現れた時代。あんたにあげたの世良公則さん(1977年グランプリ)、飛んで飛んでの円広志さん(1978年グランプリ)…。中でも夜中にぴったりの曲は、果てしない夢を追い続けるクリスタルキングさん(1979年グランプリ)。生まれた町の景色しかまだ知らない10代の私は『大都会』を聞いて、街への憧れを抱いたのだった。昭和のペット
猫
同居していた祖母のイメージは、和服に割烹着、膝に猫だ。祖母は常に猫を飼っていた。名前はトラ猫なら「トラ」でそれ以外の種類は「タマ」。どれもオス猫で私が記憶する限り交代で4匹飼われていた。猫は年老いて死期が近づくといつの間にかいなくなった。すると祖母はどこからか次の猫をもらってきて飼っていた。単に好きだからというのではなくネズミ除けのためだったと今になって思う。なにせ人間が食べていくのも必死な昭和30~40年代、ペットに食費をかける余裕などうちにはなかったはずだから。ひよこ
小学校の門の前にひよこ売りが来ていた。うどんで釣るのだ。1羽いくらだったのか。百円ぐらい? 初めて釣って持ち帰った時、おばあちゃんの部屋で見せていると、庭にいた祖母の飼い猫タマが、しばらくこっちを見ていたかと思うと、一瞬でかっさらって行った。あまりの早業に茫然。その次のひよこの記憶は、庭で父の手作り鳥小屋に3羽ほど飼っているシーンだ。黄色から白くなりトサカが生えてきて、間もなくおいしいチキンになるというある早朝、バタバタと羽音と鶏の叫び声が聞こえた。外に出て鳥小屋を覗くと、網が破られ1匹もいなくなっていた。
犬1 ペペ
祖母が亡くなった後の昭和49年頃から親が明石市に引っ越す直前の昭和60年まで我が家には小型のメス犬がいた。飼い始めたきっかけは母が家に迷い込んできた雑種の子犬を「かわいい♡」と紐でつないだことだった。犬は嫌がることなく大人しくつながれて数日経ち、犬を飼っているお隣がお古の首輪と鎖をくれて、さらに父がどこからか犬小屋をもらってきて、迷い犬は正真正銘我が家の飼い犬になった。誰が呼び始めたのか不明だが名前は「ペペ」。怖がりでよく吠えるがご近所の方にはかわいがられていた。ご飯をあげるのは主に私で、朝夕2回、みそ汁ぶっかけご飯が多かった。クリスマスは私が食べたローストチキンの骨をあげると、ガリガリと残さず食べていた(動物の骨は腸を傷つけるからNGだと最近知った)。散歩は、近所に住む従姉たちと一緒に武庫川の河川敷へ行くことが多かった。どこでオシッコしようがうん〇しようが自由な時代。今のように新聞紙やうん〇袋や水やら持っていく習慣はなかったので散歩へ行くのも気楽だった。
犬2 くぅ
ペペは家に来た翌年に初潮を迎えた。犬小屋の前に赤いものが点々と落ちている光景は、小学生の私にはちょっとショッキングだったが、動物にもフツーに生理があることを知った。安産祈願に戌の日の理由もペペで納得した。門の下の隙間から入り込んできたオス犬に襲われたペペは、すぐに妊娠し、気が付くと出産していた。ただ、初産は1匹だったので、なんとなくそのまま親子で飼っていた。子供の名前は「くぅ」。姉が付けた。国語の教科書に載っていた名前だと翌年、同じ教科書を使った私は知った。夜間など塀の外を歩く酔っ払いを特に恐れて親子でワンワンキャンキャンうるさくてさすがにご近所迷惑だということで、父の取引先である倉庫の番犬に二匹ともあげることにしたのだった。犬3 帰ってきたペペ
番犬にあげて1週間後の日曜日、様子を見に父に連れていってもらった。倉庫は車で約10分、家から5キロほどの所だった。先住犬が数匹いる中、ペペだけが鎖につながれ、くぅはその横で大人しくしていた。そして私が近づくと親子揃って嬉しそうにくるくる回っていた。しばしの再会後、また来るねと言って家に戻った。それから2日後の火曜日の朝、父が新聞を取りに玄関を開けた瞬間「あれ」と言った。同時にペペが玄関の土間に走りこんできた。慌てて私が土間に下りると、一旦門まで走っていったペペが今度は私に飛びついてきた。ちぎれんばかりにしっぽを振り、何度も何度も門と玄関を往復して飛びついてくるペペは、喜びが全身からあふれている。私も「なぜここに?」 という驚きより会えた嬉しさでペペが飛びついてくるたびムツゴロウさんのようにひしと抱きしめていた。

その日、父は倉庫の人に事情を聞いてきてくれた。ペペとくぅは預けたばかりの頃は逃げ出さないよう一匹ずつ交代で鎖につないでいたが、1週間経ちもう慣れただろうと月曜の朝に二匹とも解放したそうだ。それが私たちが倉庫に行った翌日のことで里心を刺激されていたのか鎖を外したとたん二匹揃って逃げ出したと。それから一昼夜、どこをどうやって帰ってきたのか。残念ながらくぅは途中ではぐれたようで、しばらく近くを探したが見つけることはできなかった。ただ、ペペが帰ってきた日の午前中に似た犬を武庫川の近くで見かけたとの親戚の証言があったので、近くまで一緒にいたことは確か。ここからは私の想像になるが、ペペは昔よく武庫川へ散歩に連れてっていたので土地勘はある。しかし、くぅは野放し状態だったため武庫川を知らない。でもって自分が知っている場所まで来た時ペペは「わかった!」とばかりに一目散に戻ってきたのだと思う。子供のことも忘れるほどに…。そんなペペを再び倉庫番に出すなんてできるわけがない。そして、ペペは最期の時まで我が家にいたのだった。
犬4 ペペの散歩
倉庫に連れていかれたトラウマだろう、ペペは遠出を嫌がった。私も従姉も受験やらで忙しくなり散歩に連れて行くこともなくなった。そうしてペペの散歩は、各自自由散策方式に。夜の9時になるとくぅんくぅんと鳴き始める。私は鎖を首輪から離す。ペペは元気よく飛び出していく。30分後、犬小屋を覗くとペペは既に休んでいる。なので鎖を首輪に付けて終わり。今、こんな方法で散歩させてたら訴えられるだろうな、うん。昭和の生き物
ネズミ
生まれ育った平屋建ての家には天井裏があり、週に1~2度ドドドドド~バタバタバタ~っと複数の小動物が走り回る音がした。これを私たちは「ネズミの運動会」と言っていた。たいてい夜間、眠る前頃に始まり、数分続いた。時々、ネズミを追いかける猫の声と足音、たまに蛇が這う音がネズミの足音に混じって聞こえることがあった。運動会を止める方法は大声で叫ぶ、天井をどんどん叩く、などの方法があった。忘れられないねずみの思い出をもうひとつ。中学校の時、1学年下のはとこ(親がいとこ同士)とうちで一緒に夏休みの宿題をしていた。すると、チューチューと鳴き声が聞こえた。見ると、隣の座敷のテーブルの上にあった冷ご飯の丼にネズミが顔を突っ込んでいた。と、はとこが輪ゴムを指にひっかけ、ビュン! それは見事に当たり、ネズミは慌てて逃げていった。
その家を出てからネズミと出会うこともなくなった。彼らは今、どこで生活しているのだろう。
パンダ
初めて日本にパンダが来たのは昭和47年(1972年)10月のこと。カンカンとランランの2頭は一躍上野動物園のスターとなった。遠く離れた関西でもパンダ人気は高く、私の家にはパンダのぬいぐるみがあった。それは祖母のお土産だった。高さ30㎝ほどのぬいぐるみは当時買ってもらったばかりの我が家のピアノの上に飾られていた。つい最近まで実家にあったが白の部分がグレーになったので処分されたはずだ。さて、このパンダのぬいぐるみ、幼い頃、私は漠然と祖母が上野動物園で買ってきたと思っていたのだが、そんな遠くまで旅行した話は聞いたことがない。そこで先日、姉に聞いたところ、「老人会の日帰り旅行の土産物」で「行先は天王寺動物園では?」とのこと。なるほどと合点がいった。パンダ人気にあやかり、バッタもんがあちこちで売られた時代だったのだ。
神戸の王子動物園、白浜のアドベンチャーワールドにもパンダはいたが、王子動物園のパンダは令和6年(2024年)に亡くなり、アドベンチャーワールドのパンダ4頭は令和7年(2025年)6月に中国に返還。残る上野動物園のパンダ2頭も令和8年1月(2026年)に返還され日本にパンダがいなくなった。寂しいことは確かだが、個人的には金食い虫がいなくなって良かったという気持ちだ。(レンタル料その他の経費を考えるとね。)さらに前年に熊の出没で多くの人がケガをし命を奪われたことを考えるとパンダは要らないと思う。そう、パンダは熊。なのになぜパンダだけがあれほどお金をかけてもらえてちやほやしてもらえるのか、白と黒でカワイく見えているだけじゃないか。と、2026年1月25日放送の読売テレビ『そこまで言って委員会NP』で竹田恒泰(たけだつねやす)さんが同じようなこと「全部茶色だったらただの熊」なんておっしゃっていたので「そうだそうだ!」とテレビに向かって叫んでしまった。こういう時、私は自分を昭和の女やなと思うのだった。






