グアテマラのリベンジおばちゃん
初めてスペイン語圏へ行ったのは、96年のこと。中米は未体験ゾーンだったことと、ガイドブックで『グアテマラの古都アンティグアには旅行者向けのスペイン語学校が多く、ホームステイもできる』とあったので、生きていくために必要不可欠な単語「セルベッサ」(ビール)だけを覚えて、入国した。
到着初日に財布をスラれガックリだったが、すぐ立ち直り、2日目には週20時間45USドル(当時のレートで約5500円)の語学学校を見つけた。マンツーマンレッスンで1時間300円弱は日本では考えられない安さだ。学校の紹介でホームステイ先もすぐに決められた。3食付き週40USドルの滞在先は平屋建ての4LDK。3部屋を学生に貸しており、私はシャワー室を改造したらしい細長い部屋を与えられた。ベッドと机だけだったが、居心地は悪くなかった。残る1部屋は52歳になるロメリアおばちゃんの寝室だ。

一応、家人はこのおばちゃん一人だった。学生の食事の世話から買い出し、家の掃除、近所に住む孫5人の子守に彼らの洗濯、ご近所づきあい、言葉が通じず無口になっている私の相手までしてくれた。
目の回るような忙しさのはずなのに、時々ラジオから流れる音楽に合わせ歌い踊りながら家事をするスーパー元気モノおばちゃんが、私は大好きだった。
不思議だったのは、平日の朝7時過ぎと昼の12時頃に今にもぶっ壊れそうなカローラに乗って白髪の親父が突然現れることだった。時々夜に酔っ払って現れることもあった。親父はおばちゃんのご主人であることは、他の学生に聞いてすぐにわかった。でも、同居はしていない。エンジンのけたたましい音が聞こえるとおばちゃんが走り出てガレージの思い鉄扉を開け、3分で食事を出すと親父は5分で平らげて去って行くといった具合だった。
滞在2週間目にようやく「親父の仕事は検事で『他の家』に住んでる」とヒアリングできた私は「他の家ってセカンドハウスのことだろう。検事ってやっぱもうかるんだ」と思っていた。

滞在3週間目、珍しく日曜日に親父がやって来た。それも午後2時頃である。親父は、しばらくおばちゃんと話していたが、暇そうにしていた私に「僕の家に連れてってあげよう」と言ってきた。チビ&白髪&酒好きの親父を一瞬警戒した。が、検察官だし、まぁ大丈夫だろう(何がや!?)と思った上、おばちゃんも「行っといで」と勧めてくれたので、行くことにした。
家は車で約10分の郊外にあった。本宅よりぐんと小さかったが、真新しかった。外壁や玄関回りなどはまだペンキを塗っている最中のようだ。と、中からインディヘナの服を着た女の子が出てきた。少女は、赤ちゃんを抱いていた。
なんだお手伝いさんがいたんだ、警戒した私ってバカ? と思った私に、親父は少女らをこう紹介した。
「僕のカノジョと子供さ」
どっひゃあ~!
私が自分の耳を、いや語学力を疑ったのは言うまでもない。でも、その時、親父は確かに英語で、
「マイ・ガールフレンド アンド マイ・ベイビー」
と言った。
女の子は18歳、赤ちゃんは生後6か月。
一方の親父は、54歳で、5人の孫がいて、お堅い商売をしてて、働き者の奥さんもいるんだっせ。そう簡単に、この現実を受け入れられようものか!
固まっている私に親父は、やはり英語混じりで説明した。
「自宅でロメリアの家事の手伝いをしていた女の子に手を出し、子供ができたので別宅を買い、一緒に住むことにした。ロメリアは嫉妬深い女で、別居するまで喧嘩ばかりしていたが、今は穏やかだ」
なんちゅう親父! 何が穏やかだ、ヌケヌケとよう言うわ!!
私は、呆れ返ってモノも言えない。(それでなくてもほとんど言えないんだゾ!)口あんぐりのまま家に戻ると、おばちゃんはいつもの通り、笑顔で出迎えてくれ、グアテマラ特製薄くてマズい煮出しコーヒーを入れてくれた。そして、
「赤ちゃん、かわいかったやろ?」
とニヤリ。
「親父に他の女がいたなんて知らなかった」と言うと「そうかいな。アンタには前に言うたんやけど、やっぱり理解してなかってんなぁ」とケラケラ笑った。
「あの人、昔からずっとあんなんや。ホンマ、しゃあないやっちゃ」
やれやれといった感じで呟いたおばちゃん…それでも車の音が聞こえるとガレージを開けに飛び出し、3分で食事を出す。それも、手の込んだ料理の日は親父が来る日、と私がわかるほどかいがいしく尽くしている。
いったいなんで、そんなことするの? おばちゃんは下宿屋してるし子供も孫も近所にいて、寂しくもなければ生活もできるはず。なのに…これは、やっぱり愛!?

滞在4週間目、とうとう私が日本へ帰る日がやって来た。空港行きの車は朝5時過ぎに迎えに来る。私はそっと荷物をまとめ、玄関のあるリビングに入った。と、おばちゃんはまだ薄暗いリビングで、コーヒーを沸かして待っていてくれた。高地のせいで朝は特に冷える。私は湯気の立つカップを両手で抱え、「ありがとう」と言って、ひと口飲んだ。おばちゃんのぬくもりがカップを通して伝わってくるような気がした。
エエ人に出会えた。『また来るね』って、何て言うんだっけ。
考えていると、ソファでにこにこしていたおばちゃんが、先にしゃべり始めた。
「今日な…ダンナが荷物まとめてこっちに戻って来るんやて」
「え、どういうこと?」
「彼女と喧嘩したんやて。やっぱり若い娘に、あの人の面倒なんか、見られへんわな」
私を見て、おばちゃんはクスリと笑った。それはまるで、勝利を勝ち取ったオリンピック選手のコーチのように誇らしげに見えた。
背筋がぞくっとした。
おばちゃんのがんばりは、親父への『愛』なんて美しいものではない、ただ単に、自分をコケにした『若い娘』の鼻をあかしたかったの、か…。
『女は、怖い』
聞き慣れたこの言葉の真意を、初めて体感したと思った。

まんまとハメられた親父は今頃どんな生活をしているのでしょう。若さを武器に男に迫り、子供を作ってしまった彼女は…あ、こっちは家をもらってるのか。
と、やっぱり女は怖い。世の殿方、女には気ぃつけや。特に人生経験を積んだオバオバにはネ。